第四人称の語り部

コトバを生きる日々/ 俳人 /【俳句てふてふ】▶︎▶︎川辺一生

【エッセイ 11】よむ

祖母が亡くなって、二月(ふたつき)。

心は虚(うつろ)で、ただ流れてゆくばかりの

毎日に、焦りが募っていた。

 

読書だけが、かろうじて自分を

つなぎとめてくれる気がした。

魂の飢えを満たしてくれることばを、

毎日探し求めては、むさぼるように本を読んだ。

 

あるとき、書店で一冊の絵本が目に止まった。

やさしいタッチの絵に、

『くつやのマルチン』と、

しなやかな書体で書かれた表紙。

その隅に、作者の名前が書いてある。

トルストイ

その名前は特別な響きを持っていた。

母が亡くなったとき、彼の『戦争と平和』に

生きる力を得たのを想い出す。

この再会は、何かを告げている、そう感じた。

 

絵本を買って帰宅すると、早速読んでみた。

純朴なマルチンが、助けた人たちの中に、

キリストをみる。短く、素朴な民話。

 

すぐに読み終わったものの、

物語の意味は分からなかった。

 

だが、体は深い余韻に満たされ、

しばらくの間、辺りを包む沈黙に、

身を委ねた。

 

 *

 

「よし、じゃあ今日も遊ぼっか」

ケンタは、こくりと頷いた。

 

家庭教師の授業は二回目だが、

ケンタは発話がなく、表情も固い。

ボール遊びをしながら、様子を

見てみようと思った。

 

が、ケンタも男の子の例に漏れず、

段々とわんぱくな面を見せ始めた。

 

座布団を投げつける、

こちらに体当たりしてくる…。

 

頃合いかもしれない、と思った。

ケンタをガバッとつかまえると、

体のあちこちをくすぐった。

 

「きゃはは、くすぐったい!」

 

ケンタは顔をくしゃくしゃにして、

笑い転げた。

それから、一緒に遊んで、笑って、

楽しい時間が過ぎていった。

 

ぬくもりが体をかけめぐる。

なにかが、開かれてゆく。

次の瞬間、ことばが激しくからだを貫いた。

 

「まさしくこの日、マルチンのところへ、救世主がこられたのだということ、自分が彼を正しく迎えたということを、マルチンは悟りました」

 

『くつやのマルチン』の一節。

その意味と一体になったような気がした。

 

後日、この民話の別の単行本を見つけ、

取り寄せた。

訳は北御門二郎。

その表紙には、やわらかい書体で

題名が刻まれていた。

『愛あるところに神あり』と。

 

※ この記事は、事実を基にしたフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。

 

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