第四人称の語り部

コトバを生きる日々/ 俳人 /【俳句てふてふ】▶︎▶︎川辺一生

2023-01-01から1年間の記事一覧

【エッセイ⑤】微笑みの涙

この暗闇が、永遠に続くなら いっそ、すべてを終わらせて… すでに強迫症は、彼から日常を奪い去って 久しかった。 そのひとに出会ったのは、そうしたとき。 臨床心理士と名乗ったそのひとを、 はじめ彼は警戒したが、気づくと静かに、 苦しみを打ち明けてい…

【エッセイ④】ひときれのパン

いつの頃からか、声なきうめきが、聴こえるようになった。 導かれるように、家庭教師という仕事を選んだ。 引き受けるのは、不登校や貧困家庭の子どもたち。 初めてその現場に入った日のことを、忘れることができない。 保護者に促されて、玄関をあがる。入…

エッセイ③ 夏の匂い 秋の声

雨は、やんでいた 駅の改札から外に出ると、 アスファルトはどこも濡れて 黒く光っている 並木道に沿って歩いてゆくと、 そこかしこで木を伝って落ちてきた水滴が 地面をとつとつ、と打っている 涼風が顔を打ち 小粒のしずくがパラパラと 肩に落ちてきた 湿…

エッセイ② 夏のかおり

窓の外は 傾いた陽の朱色がすでに遠い マッチを擦ると、ぱっと炎がはじけるように輝いて ほの暗い室内を一瞬、明るくした しぼんだ小さな火を竹串状の線香に近づける 先端が淡くにじんだように、ぼんやりと燃えはじめ、 白煙がすうっと、昇った 沈香の匂いが…

エッセイ① 茜の空

書店から外に出ると 調整池の向こうの空に 茜が差していた その明暗がちょうどターナーの絵のように鮮やかで、 彼は吸い寄せられるように欄干のそばに来ると、 腕をもたせて、ぼんやりと彼方を眺めた 一日のほとんどを屋内で過ごす彼にしてみれば、 日頃見る…

読むと書く日々⑤ 『イワン・イリッチの死』

愛する家族を送り出した かなたへ、渡ってゆく魂を こころを置いて 時間だけが過ぎてゆく その空白に一点のシミのように 問いが広がっていった 「なぜ、生きねばならないのだろう」 生きる意味も 生きる力も 無限に後退していくような気がした 怖いと思った …

愛別離苦とコトバ

愛する人を亡くしたとき 私はコトバを手元に残した。 2023.09.06 手に食い込む棺の重さが痛い 吹きつける一月の風の冷たさが その痛みを余計にする 黒の服に点々と 粉雪が積もる うっとうしい寒さにやり切れず 曇天の空を睨んだ 我が愛する者が いま あなた…