いつの頃からか、声なきうめきが、聴こえるようになった。
導かれるように、家庭教師という仕事を選んだ。
引き受けるのは、不登校や貧困家庭の子どもたち。
初めてその現場に入った日のことを、忘れることができない。
保護者に促されて、玄関をあがる。入ってすぐの座敷に、小さなちゃぶ台が置かれていて、その向こう側にちょこんとコウタは座っていた。
曇った目を伏せて、体をちぢこめた彼の姿は、ひどく小さく見える。
自らの存在を消すことで、自分を、いのちを守っていた。
生きるために、十歳なりに考えた精一杯の知恵。
胸の奥を重たい何かが殴りつけてくるのがわかった。
ちゃぶ台の前に座りながら、半ば無意識にコウタに微笑みを向けると、彼は探るような目で、ちらりとこちらを見上げた。
その目は、いつ、この大人は言葉という拳を振り上げるだろうか、
と身構えているようだった。
「じゃあ、お願いしますね」
保護者がその場を立ち去るのを見届ける。
待ちかねたように、いたずらっぽい目配せをコウタに送って、おもむろにカバンの中から種々雑多な玩具を取り出してみせた。ウノ、ジェンガ、オセロ・・。
予想外の大人の行動に、コウタは目を丸くしている。
「さあ、遊ぼっ」
そうコウタに語りかけると、返事を待たずに遊び始める。戸惑いながらも、コウタも遊びの輪に加わった。
子どもは楽しむことの名手だ。
次第にコウタの口からクスクスと笑い声が漏れはじめ、本来の自分を解き放つように、笑顔がこぼれ始めた。いつしか、コウタは子どもらしい明るさを取り戻していった。
そんな彼の姿に、わたしも救われるような想いがするのだった。
そうしてふと、想う。
あのひとの居場所を、教えてもらった、と。
これらのいと小さき者の1人になしたるは、すなはち我になしたるなり
(マルコ 25-40)
コウタの笑顔のなかに、あのひとのやさしい瞳がみえたような気がした。
わたしを呼び招いたのは、まさしくその瞳だったのだ。
それからというもの、一片のパンを子どもたちに捧げるようになった。
共に過ごす時間。ささやかな安らぎ。楽しい想い出。
言葉と遊びでかたどった、目にみえない、あたたかな一片のパンを。
※ この記事は、実話を基にしたフィクションです。実在の人物や団体とは関係ありません。