第四人称の語り部

コトバを生きる日々/ 俳人 /【俳句てふてふ】▶︎▶︎川辺一生

【エッセイ⑤】微笑みの涙

この暗闇が、永遠に続くなら 

いっそ、すべてを終わらせて…

 

すでに強迫症は、彼から日常を奪い去って

久しかった。

そのひとに出会ったのは、そうしたとき。

臨床心理士と名乗ったそのひとを、

はじめ彼は警戒したが、気づくと静かに、

苦しみを打ち明けていた。

 

にこやかに話を聴いていたそのひとは、

ふと、気づいたことがあります、と言った。

 

強迫症は、ずっと、あなたの戦友だったのですね」

「戦友…」

 

その響きに圧倒された。

彼は長いこと、その病を駆逐しようと、

もがいていた。

だが、その病が紛れもない自分の

一部だとしたら。

いまこのときから、日常に戻ることができる。

再び、生きてゆける。

 

気づけば、声の限り慟哭(どうこく)していた。

激しいなにかが、触れてきた。

名前も知らないそれを、彼はこれから

生きていく気がした。

 

・・あの日、差し出された手をつかんだ。

導かれるままに、今度は手を差し出す人生を、

彼は選んだ。

困難を生きる若者たちの学習塾。

そこで教鞭をとった。

 

大学生のタケルに出会ったのは、

二年ほど経った頃。

大学の勉強を手伝うのが目的だったが、

いつしかタケルの悩みに

耳を傾けることが、ほとんどになった。

 

あるとき、タケルは沈んだ目で、

大学でいじめられていることを、

喘(あえ)ぐように彼に語った。

うつむくタケルとの間に、重たい沈黙が流れた。

 

タケルにかけるべき言葉。それを探すのは、

やめた。

沈黙に身を委ねていると、静かな風が、

くちびるを動かした。

 

「どんなときも、わたしは、タケルのそばにいる。絶対に」

 

顔を上げたタケルの目の色が、変わった。

 

結局、タケルは秋になって大学を辞めた。

自宅近くの学童で働くことにしたらしい。

最近は、楽しそうに子どもたちとの

ふれあいを話してくれる。

 

ふとしたとき、タケルは照れ臭そうに語った。

 

「先生は僕のそばにいてくれた。次は僕が、子どもたちのそばにいたいんです」

 

タケルの言葉を聴いて、彼は思わず

微笑みの涙を浮かべた。

かつての苦しみが、みせてくれた景色。

その輝きが、ひどくまぶしかった。

 

(注)「強迫症

強い不安によって日常生活に支障が出る精神障害

 

※ この記事は、事実を基にしたフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。

 

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