父は、わたしの名前を呼んだことがない。
言葉を交わしたのも、片手に収まるほどだった。
それがどうやら異質な事だと気づいたのは、
小学生の頃。
友達と彼の父親が、笑顔で会話する姿を
目の当たりにした。
呆然とたたずむしかなかった。
初めてみるその光景は、
きっと、わたしには無縁なのだ、
と幼いながらに直感した。
*
祖母の遺品は、思ったほど多くはなかった。
せめて、写真だけはたくさん持って帰ろうと、
一枚一枚、丁寧にアルバムから剥がして、
菓子箱の中に入れていった。
古びた一枚の写真が目に止まる。
白髪の好々爺が、笑顔の赤ん坊を
膝の上に乗せ、愛しそうに微笑んでいる。
もう一枚。仰向けに寝転がった先ほどの老人。
その上に五歳くらいの男の子が、
楽しそうに乗っかって遊んでいる。
祖父と幼いわたしの写真。
懐かしさに時が止まった。
ふと、あることに気づいた。
どの写真を見ても、祖父とわたしが、
屈託のない笑みを浮かべている。
くしゃっと顔全体で笑う、
その笑顔が、同じだった。
「お父さん…」
思わずことばが口をついた。
それは、ずっと願ってやまなかった呼びかけ。
応じるように、祖父との想い出が、
たしかなぬくもりと共にあふれた。
そうだ、祖父はいつも、名前を呼んでくれた。
大きな手で頭を撫でてくれた。
やさしい笑顔を向けてくれた。
その笑顔を、いつの間にか受け継いでいたのだ。
祖父から託された、笑顔の系譜。
それは、深く刻まれた、愛の記憶。
その運び手となったわたしは、
今日もこの笑顔を、生きてゆく。