第四人称の語り部

コトバを生きる日々/ 俳人 /【俳句てふてふ】▶︎▶︎川辺一生

【エッセイ⑩】笑顔の系譜

父は、わたしの名前を呼んだことがない。

言葉を交わしたのも、片手に収まるほどだった。

 

それがどうやら異質な事だと気づいたのは、

小学生の頃。

友達と彼の父親が、笑顔で会話する姿を

目の当たりにした。

呆然とたたずむしかなかった。

初めてみるその光景は、

きっと、わたしには無縁なのだ、

と幼いながらに直感した。

 

 *

 

祖母の遺品は、思ったほど多くはなかった。

せめて、写真だけはたくさん持って帰ろうと、

一枚一枚、丁寧にアルバムから剥がして、

菓子箱の中に入れていった。

 

古びた一枚の写真が目に止まる。

白髪の好々爺が、笑顔の赤ん坊を

膝の上に乗せ、愛しそうに微笑んでいる。

もう一枚。仰向けに寝転がった先ほどの老人。

その上に五歳くらいの男の子が、

楽しそうに乗っかって遊んでいる。

 

祖父と幼いわたしの写真。

懐かしさに時が止まった。

 

ふと、あることに気づいた。

どの写真を見ても、祖父とわたしが、

屈託のない笑みを浮かべている。

くしゃっと顔全体で笑う、

その笑顔が、同じだった。

「お父さん…」

思わずことばが口をついた。

それは、ずっと願ってやまなかった呼びかけ。

応じるように、祖父との想い出が、

たしかなぬくもりと共にあふれた。

 

そうだ、祖父はいつも、名前を呼んでくれた。

大きな手で頭を撫でてくれた。

やさしい笑顔を向けてくれた。

その笑顔を、いつの間にか受け継いでいたのだ。

 

祖父から託された、笑顔の系譜。

それは、深く刻まれた、愛の記憶。

その運び手となったわたしは、

今日もこの笑顔を、生きてゆく。

 

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