第四人称の語り部

コトバを生きる日々/ 俳人 /【俳句てふてふ】▶︎▶︎川辺一生

【エッセイ⑧】たったひとつのなみだ

強迫症の病状は悪化してゆくばかりだった。

昨日できていたことが、今日にはできない。

胃も、食を受けつけなくなった。

 

飢えが、孤独が、恐ろしかった。

その恐怖に耐えられず、部屋で暴れ、家族に当たり散らす。そんな日々が続いた。

そうしたときにやってきたのが、あのひとだった。

 

臨床心理士の北山です。どうぞ、よろしく」

臨床心理士という言葉に、びくりと体が震えた。

今までに何度も聞いた、その名乗り。

探るように、向かいに座ったそのひとの顔を見た。北山先生は静かに微笑んでいた。

 

警戒しながらも、言葉を紡いでみた。

もうこのひとに、賭けるしかなかった。

病気や苦しみ、それらを少しずつ語った。

 

ふと、北山先生は、気づいたことがあります、と言った。

 

強迫症は、きみの戦友なのかもしれない」

「せんゆう、ですか…」

「そう、一緒に戦ってきた、かけがえのない仲間」

「なかま…」

 

何かが崩れてゆくのが、わかった。

今日までずっと、この病を呪ってきた。

病を駆逐しなければ、元の生活に戻れない、生きる価値もない、と。

 

だが、本当に? 

生きる価値を病に委ねずとも、あなたは、あなたじゃないか。

そう問われている気がした。

また、生きてゆける。その直感が胸を貫いた。

嗚咽がとめどなく溢れ、静かな部屋にこだました。

 

顔を上げると、北山先生は、やさしく微笑んでいたが、なぜか泣いているようにみえた。

目には見えないそのなみだが、十五年以上経った今も忘れることができない。

それは初めてみた、

わたしのための、

たったひとつの、

なみだだったから。

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