第四人称の語り部

コトバを生きる日々/ 俳人 /【俳句てふてふ】▶︎▶︎川辺一生

名刺と32年

裏・自己紹介①

名刺を増刷しました

 

「名刺」ってどぎついよね。

「名を刺す」ってさ。

 

逃げられない感じ。

 

覚悟とか。

夢とか。

志とか。

 

全部串刺しにして差し出すんだもんね。

 

うん、やっぱ大事。

名刺。

 

僕の名刺はいたってシンプル。

といえば聞こえはいいけど、無職なもんで書くことがない。

 

仕方がないので、と言ったら嘘だけど、一言入れようって決めていた。

 

歓びの明日に

 

僕のことを知ってる人は聞いたことあるかも。

 

僕の志。

大好きな言葉。

 

でもたぶん、この言葉に込めた想いを、誰にもちゃんと伝えたことはないような気がしている。

 

だから、改めて、そのことをちゃんと話したいと思った。

独白録みたいな、ね。そんな感じ。

 

昭和62年と誕生

 

そのためには、僕の32年間を嘘偽りなく、喋る必要があると思う。

 

できるだけ簡潔に、伝わりやすく、言葉にしてみようと思う。

 

付き合ってくれる物好きな「あなた」にありがとうと言っておきます。

 

僕は今32歳。

ギリ昭和生まれ。

令和に親近感を覚えるアラウンドサーティー

 

でもね、本当はこんなに長生きする予定じゃなかった。

 

生後数ヶ月で死ぬかもしれなかった。

 

腸重積っていう病気を生まれてすぐにやらかしたらしい。

 

「あと数分発見が遅れていたら死んでましたね」

 

って、お医者さんに言われたとか。

 

棚ぼたも棚ぼた。

ぼたもちどころか、命が落っこちてきたラッキーボーイ、である。

 

そんなこんなで、文字通り命拾いした僕はスクスクと育った。

 

母と「父親と言われる人」と僕と弟の4人家族。

外から見たらフツーの家族。

 

「父親って言われる人」とカッコ書きを使ったのにはちゃんと意味がある。

 

僕は生まれた時から20年間、父親と言われる人に「ネグレクト」されていた。

簡単に言えば育児放棄

 

同じ屋根の下で暮らしてたけど、僕が物心ついてから二十歳になるまで、その人とまともにしゃべったのは片手にすっぽりおさまるくらい。

 

20年間で、だ。

 

僕がそれがおかしいと感じたのは、小学生くらいの時だったと思う。

友達の家に遊びに行って、友達と彼のお父さんが楽しそうにおしゃべりしている姿を見て衝撃を受けた。

 

「あっ、お父さんとおしゃべりしてもいいんだ」

 

僕にとっての「父親」は、まず家にいることがほとんどなかった。

終電で帰ってきて、始発で仕事に向かう。

存在そのものがレアポケモンみたいだった。

 

あとで聞いた話では、家にいるのが嫌で、子どもと同じ空気を吸うのが嫌で、朝早くでかけ、夜はキャバクラでギリギリまで遊んで、寝るためだけに家に帰る生活だったらしい。

 

たまに家にいる時はずっとお酒を飲んでいるか、タバコを吸っているか。

その視界に家族はいなかった。

 

おしゃべりをする、なんていうことは僕とその人との間には発生しようがなかった。

 

でも僕は特に不自由もなかったし、そんなもんだと思って過ごしていた。

 

中学デビューといじめ

 

そんなこんなで、僕は中学生になった。

私立の中高一貫

茨城では名の知れた進学校

 

でも入るやいなや、いじめを受けた。

 

言葉の暴力。

物理的な暴力。

見て見ぬフリの先生たち。

 

僕のネガティブなアイデンティティ99.99%はあの時に形作られた。

 

僕は今でも「言葉」というものが怖い。

 

自分を否定する言葉を投げつけられた時に、心臓を冷たい手でキュッと握られたようなあの感覚。

 

僕はきっと一生忘れることができない。

 

大人になった今、あの感覚になるようなことはほとんどないから、あの当時どれだけひどい言葉を日常的に投げつけられていたのか、と思う。

 

いじめをやる子どもって恐ろしく残酷である。

 

そんなこんなで、僕の神経もだんだんとおかしくなった。

 

毎日、学校にいる間ずっと

 

「どうやって自殺したら、いじめっこ達に復讐できるか、」

 

そんなことを考えていた。

 

屋上から飛び降りてみる?

 

電車に飛び込んでみる?

 

いじめっこをカッターナイフで滅多刺しにして自分も死んでみる?

 

でも、どの空想をしても、いじめっ子達がニヤニヤしてる顔しか浮かばなかった。

 

13歳。

理不尽を受け止めるには幼すぎた。

 

だから、弱々しく逃げることにした。 

 

仮病を使って休むようになって、母親も異変に気付いてくれた。

 

戦線離脱。

 

戦略的撤退、というにはお粗末過ぎたけど。

 

それから僕は学校に行ったり、行かなかったりを繰り返すようになった。

 

幸い、進学校だったから、いじめっ子たちも先生に絞られたら反省するレベルのいい子達(?)だったようで、学校に復帰してからは近づいてくることがなくなった。

 

めでたし、めでたし、と言いたいけれど、その頃から次の悲劇ははじまっていた。

 

続きはまた次回書こうと思います。

 

ここまで付き合ってくれた「あなた」に感謝!

 

ありがとう。